HISTORY OF VISSEL・Vol.1※過去のデータ(岡山県リーグや中国リーグ、JSL時代など)をお持ちの方はご協力くださいm(_ _)m内容に修正点や追加などがあればご一報下さい。 Vol.1(1966年~2003年) ~ヴィッセル神戸の沿革~ ・1966(昭和41)年 川崎製鉄水島サッカー部、創部。本拠地は岡山県倉敷市。形式は社内同好会。 末永直氏が監督就任。1972年まで指揮を取る。 ・1967(昭和42)年 岡山県リーグ2部に所属。実質的なスタートを切る。 ・1 9 7 3 (昭和48)年 小林守氏が監督就任。1976年まで指揮を取る。 1部に昇格するまでの間、県リーグで2~3部を往復する。 ・1 9 7 4 (昭和49)年 岡山県リーグ1部に昇格。 ・1 9 7 5 (昭和50)年 川崎製鉄サッカー部のOBがクラブチーム「リバーフリーキッカーズ(RFK)」を設立。 ・1 9 7 7 (昭和52)年 岡山県リーグ1部初優勝、中国リーグに昇格。 宇野昇氏が監督就任。1981年まで指揮を取る。 ・1 9 7 8 (昭和53)年 中国リーグに所属。中国リーグ昇格に伴い同好会から専門部に移行。 第14回全国社会人サッカー選手権大会に初出場。日立水戸勝田に0-2で初戦敗退。 ・1 9 8 2 (昭和57)年 中木秀雄氏が監督就任。1984年まで指揮を取る。 1985年までに中国リーグで5回の優勝を果たすが、地域リーグ決勝大会で全国の壁の厚さに泣く。 ・1 9 8 5 (昭和60)年 郡晴巳氏が監督就任。1991年シーズンまで指揮を取る。 5回目の地域リーグ決勝大会進出を決める。 ・1 9 8 6 (昭和61)年 地域リーグ決勝大会で予選Dグループを2勝で1位通過、決勝リーグへ進出。 決勝リーグを2勝1敗の2位。JSL2部昇格を決める。 ※86年からのJSLチーム増で決勝リーグ全4チームがJSL2部昇格。 JSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格。 第15回JSL2部リーグ戦前期・西ブロックを8チーム中、7位。 2勝2分10敗 勝ち点6 得点16 失点30 得失点差-14 第15回JSL2部リーグ戦後期・西ブロック下位リーグを4チーム中、2位。 3勝1分2敗 勝ち点13 得点29 失点39 得失点差-10 11-12位決定戦、全日空に2-4と敗北、16チーム中最終順位12位で終える。 ・1 9 8 7 (昭和62)年 このシーズンから「秋開催→翌年春閉幕」となる。 川崎製鉄サッカー部に改称。(88年-89年シーズンから) 第16回JSL2部リーグ戦前期・西ブロックを8チーム中、4位。 6勝2分6敗 勝ち点14 得点21 失点19 得失点差+2 第16回JSL2部リーグ戦後期・上位リーグを8チーム中、8位。 1勝3分10敗 勝ち点5 得点8 失点30 得失点差-22 16チーム中最終順位8位で終える。 第12回JSLカップ、1回戦で富士通と対戦。0-2で初戦敗退。 ・1 9 8 8 (昭和63)年 第17回JSL2部リーグ戦前期・西ブロックを8チーム中、6位。 1勝6分7敗 勝ち点8 得点8 失点15 得失点差-7 第17回JSL2部リーグ戦後期・西ブロック下位リーグを4チーム中、2位。 2勝10分8敗 勝ち点14 得点15 失点22 得失点差-7 11-12位決定戦、コスモ石油に0-0(PK3-2)で敗北、16チーム中最終順位12位で終える。 ・1 9 8 9 (平成元)年 第18回JSL2部を16チーム中8位。 14勝7分9敗 勝ち点49 得点47 失点23 得失点差+24 ・1 9 9 0 (平成2)年 第19回JSL2部を16チーム中7位。 15勝4分11敗 勝ち点49 得点37 失点41 得失点差-4 ・1 9 9 1 (平成3)年 勝ち点差わずか1の差でJ1リーグ入りを逃す。 第20回JSL2部を16チーム中8位。 ??勝??分??敗 勝ち点45 得点?? 失点?? 得失点差?? ・1 9 9 2 (平成4)年 JSLはJリーグ、JFL1部(J1)、JFL2部(J2)に再編成。 JFL(ジャパンフットボールリーグ)2部に参加。 川崎製鉄サッカー部初の外国人監督、エルシオ氏が就任。1992年の1シーズンのみ指揮を取る。 10月1日、Jリーグオフィシャルショップ「GATEGORY-1」1 号店を神戸にオープン。 JFL2部ベストイレブンにDF黒川俊博、エデルソン、MFアギナルドらが受賞。 第1回JFL2部10チーム中3位。 11勝2分5敗 勝ち点35 得点32 失点17 得失点差+15 1992年の川崎製鉄サッカー部チーム集合写真(一部)。このシーズンは川崎製鉄サッカー部史上初にして最後の外国人監督、エルシオ氏(ブラジル)が就任。 サプライヤーはミズノ(ランバード)。 ・1 9 9 3 (平成5)年 2回目の就任、川鉄サッカー部最後の監督となる、郡晴巳氏が再び監督に。1994年まで指揮を取る。 5月、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグが開幕! 10月、「ドーハの悲劇」。日本代表、94年ワールドカップ・アメリカ大会への出場を逃す。 12月5日、地元神戸の有志により、「神戸にプロサッカークラブをつくる市民の会(オーレ!KOBE)」発足。 JFL2部ベストイレブンにDFエデルソンが受賞。 第2回JFL2部10チーム中5位。 10勝8敗 得点30 失点23 得失点差+7 1993年の川崎製鉄サッカー部チーム集合写真(一部)。このシーズンから再び郡晴巳氏が監督に再就任。サプライヤーはこのシーズンもミズノ(ランバード)。 ・1 9 9 4 (平成6)年 JFL1部(J1)とJFL2部(J2)を統合。Jリーグ、JFLという編成に。 3月30日、川崎製鉄サッカー部を母体に神戸をホームタウンとするプロサッカークラブ設立の意向を発表。 6月30日、運営会社「株式会社 神戸オレンジサッカークラブ」設立。資本金10億円。 代表取締役社長に土谷忠彦氏(元・ダイエー常務)が就任。 資本金10億円の50%である5億円をダイエーが出資、筆頭株主となる。 9月16日、Jリーグに準加盟(準会員)の申請。 9月30日、一般公募17518通の中からチーム名を「ヴィッセル神戸」に決定。 10月15日、スチュワート・バクスター氏(前 広島監督)の監督招聘が内定。 11月15日、Jリーグ理事会の決定により、J準会員に承認。 12月11日、第74回天皇杯2回戦、ベスト16で終了。川崎製鉄として最後の公式戦。vs京都サンガ(神戸ユニバ) 1-3 12月14日、バクスター氏がヴィッセル神戸初代監督に決定。 第3回JFL16チーム中8位。 13勝17敗 得点36 失点46 得失点差-10 1994年の川崎製鉄サッカー部チーム集合写真(一部)。このシーズンのサプライヤーはトッパー。 現在、ヴィッセル神戸サッカースクールの指導コーチとしてご活躍されている松原ネルソン勝氏の顔が見える。 ・1 9 9 5 (平成7)年 活動地域は兵庫と岡山(神戸ユニバ、姫路市立、岡山県営、福山市竹ヶ端)。神戸ユニバをメインスタジアムに。 チームカラーを当初の白・黒・オレンジから白・黒・エメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)に変更。 ユニフォームサプライヤーはアシックス。 ユニフォームスポンサーは伊藤ハム(胸)、アシックス(背)。 JFL後半戦よりノーリツ(背)、アルカドラッグストアー(袖)のスポンサーが付く。 川崎製鉄サッカー部24人とJリーグ・JFLから移籍加入した合計48人(シーズン途中加入も含める)が初代ヴィッセル神戸選手となる。 川崎製鉄から参加した選手・コーチの大半は川鉄に籍を残したまま出向の形を取る。 川崎製鉄最後の監督だった郡氏はコーチ(途中からサテライト監督兼任)に就任。 震災で事務所をポートアイラインドから神戸市中央区琴ノ緒町に移転。 1月1日、正式に「ヴィッセル神戸」として始動。 1月17日、チーム練習開始当日に阪神淡路大震災。 2月6日、倉敷の川崎製鉄グラウンドで練習開始。 3月1日、神戸オレンジサッカークラブの筆頭株主であるダイエーが撤退。 3月30日、チームキャラクター誕生。 4月1日、ヴィッセル神戸ファンクラブ会員募集開始。 4月2日、’95Jサテライトリーグ開幕。vs鹿島アントラーズ(カシマ) 4月12日、地元・神戸で震災後の初練習。 4月30日、神戸ユニバで「ガンバレ、神戸 阪神大震災チャリティマッチ」開催。ヴィッセル神戸としてのデビュー戦。 リオ・デ・ジャネイロ市選抜と1-1で引き分ける。 5月7日、第4回JFL開幕戦、黒星スタート。vsNEC山形(神戸ユニバ)0-2 5月14日、ヴィッセル神戸として公式戦初勝利(アウェー初勝利)。vsNTT関東 2-2(PK4-2) 5月31日、運営会社名を「株式会社 ヴィッセル神戸」と変更。 6月1日、ホームゲーム初勝利(岡山県営)。vs本田技研 1-0 6月25日、地元・神戸で初勝利(神戸ユニバ)。vs鳥栖フューチャーズ 3-1 8月5日、JFLオールスターにDF松田浩が出場。 9月3日、ヴィッセルガールとチームキャラクターがスタジアムデビュー。 10月5日、一般公募1081通の中から「モーヴィ」が選ばれ、チームキャラクターに命名される。 11月19日、アメリカ遠征。シアトルで「阪神淡路大震災チャリティーマッチ」を行う。vsシアトル・サウンダーズ 2-3 第4回JFL16チーム中6位。 18勝12敗 勝ち点55 得点53 失点36 得失点差+17 第75回天皇杯、名古屋に0-2。準々決勝(ベスト8)で終える。 (左)ホームゲーム用ユニフォーム。(右)アウェーゲーム用ユニフォーム。 1995年~1996年使用。※写真は1996年シーズン使用ユニフォーム。 1995年Jサテライトリーグのみで使用した、ミズノ製ユニフォーム。 ヴィッセル神戸の歴史の中でミズノのユニフォームを使用したのは、このシーズンのみ。(2005年現在) 翌1996年のサテライトリーグではトップチームと同じくアシックスを使用。 ・1 9 9 6 (平成8)年 ホームゲームを神戸ユニバ、姫路市立、岡山県営、津山陸上で開催。 ユニフォームデザインに変更は無いが、ソックスが前年と違い白一色に変更。 ウインドシャツ背中に伊藤ハム(白字にITOHAM)と入る。 川崎製鉄からの出向選手の大半が退団、倉敷に戻る。 4月10日、ホームで初の国際試合「がんばろう神戸・神戸シアトル国際親善試合」開催。vsシアトル・サウンダーズ(神戸ユニバ) 1-2 5月31日、FIFA(国際サッカー連盟)の理事会で2002年ワールドカップの「日韓共同開催」が決定。 7月26日、MFミカエル・ラウドルップ(デンマーク代表)来日。 7月27日、JFLオールスターサッカーにGK石末龍治、DF和田昌裕、MFビッケル、FW永島昭浩が出場。 10月27日、最終節をNTT関東に3-1と勝利、J昇格圏の2位以内を確保。 11月19日、Jリーグ理事会の承認により、Jリーグ昇格決定。 11月27日、JFLフェアプレー奨励賞を受賞。 JFLベストイレブンにGK石末龍治、DF和田昌裕、MFビッケル、内藤潤、FW永島昭浩らが受賞。 ベストゴールキーパー賞をGK石末龍治が受賞。 最優秀監督賞をS・バクスター監督が受賞。 第5回JFL16チーム中2位で終える。 25勝5敗 勝ち点75 得点78 失点32 得失点差+46 第76回天皇杯、京都に3-4。3回戦で終える。 ・1 9 9 7 (平成9)年 活動地域は神戸市。 Jリーグ昇格に伴い、J正会員に。 ユニフォームサプライヤーはアディダス。 袖スポンサーの下に特例として「明日へ!!神戸」のメッセージを入れる(2年間) 97年度末の累積赤字は約25億円。 袖スポンサーがアルカドラッグストアーからキリンに変更。 川崎製鉄からの選手はGK兼本正光、DF中尾幸太郎、DF梶山洋一のみとなる。 3月8日、ヴィッセル神戸ナビスコ杯デビュー。vs柏レイソル(柏) 1-5 3月15日、ナビスコ杯ホームデビュー。vs名古屋グランパス(神戸ユニバ) 1-1 3月29日、ナビスコ杯予選リーグ最終節でホーム初勝利。vs柏レイソル(神戸ユニバ) 2-1 4月12日、1997Jリーグ開幕。vs鹿島アントラーズ(カシマ) 2-5 4月16日、Jリーグ ホームデビュー戦で初勝利。vs名古屋グランパス(神戸ユニバ) 2-1(Vゴール) 5月7日、Jリーグ アウェー戦初勝利。vsガンバ大阪(万博) 3-2 7月27日、KodakオールスターサッカーにFW永島昭浩が出場。 10月、バクスター監督退任。 10月4日、Jリーグ史上初のフェアプレー賞高円宮杯を受賞。フェアプレー個人賞をFW永島昭浩が受賞。 11月、日本代表がワールドカップ初出場を決める。 12月、育成部長兼ユース、Jrユース総監督・ホームタウン推進室長の加藤寛氏が監督就任。天皇杯のみ指揮を取る。 1stステージを17チーム中、14位。 6勝10敗 勝ち点17 得点24 失点34 得失点差-10 2ndステージを17チーム中、17位。 3勝13敗 勝ち点7 得点19 失点44 得失点差-25 9勝23敗 勝ち点24 得点43 失点78 得失点差-35 リーグ最終順位16位。 ヤマザキナビスコカップ、予選リーグ(Dグループ)4チーム中4位で予選敗退。 1勝2分3敗 得点6 失点13 第77回天皇杯、柏に1-2。4回戦で終える。 (左)ホームゲーム用ユニフォーム。(右)アウェーゲーム用ユニフォーム。 1997年~1998年使用。※写真は1997年シーズン使用ユニフォーム。 ・1 9 9 8 (平成10)年 川崎製鉄からの選手はGK兼本正光のみとなる。 年末の時点で運営会社(株)ヴィッセル神戸の資本金は21億7500万円。 98年春に大幅なリストラを条件に神戸市から9億円の無担保融資を受ける。 2月、戦績が芳しくないことなどから観客動員数や広告収入が低迷、債務超過状態に陥る。 1月15日、ベニート・フローロ氏(前スポルティング・ヒホン監督 スペイン1部リーグ)が監督就任。 6月、FIFAワールドカップ・フランス1998開催。 7月13日、「ヴィッセル神戸後援会」設立総会。 8月16日、KodakオールスターサッカーにFW永島昭浩が出場。 9月25日、フローロ監督辞任。 10月1日、郡晴巳ユースコーチが監督就任。天皇杯終了まで指揮。 11月22日、「J1参入決定戦」第1戦(ユニバ)、コンサドーレ札幌に2-1。 11月26日、「J1参入決定戦」第2戦(室蘭)、コンサドーレ札幌に2-0。来季のJ1参入が決まる。 1stステージを18チーム中、17位。 3勝14敗 勝ち点9 得点20 失点48 得失点差-28 2ndステージを18チーム中、14位。 6勝11敗 勝ち点16 得点25 失点41 得失点差-16 9勝25敗 勝ち点25 得点45 失点89 得失点差-44 リーグ最終順位17位。 ヤマザキナビスコカップ、予選リーグ(Dグループ)3チーム中3位で予選敗退。 1勝1分3敗 得点5 失点8 第78回天皇杯、札幌に1-2(Vゴール)。3回戦で終える。 ・1 9 9 9 (平成11)年 JリーグとJFLをJリーグ・ディヴィジョン1(J1)、Jリーグ・ディヴィジョン2(J2)、JFL(日本フットボールリーグ)に再編成。 ※92年~98年を旧JFL、99年~を新JFLという表現もします。 ユニフォームサプライヤーがアシックスに変更。それにともない、ユニフォームも新調される。 99年シーズンは年間経費を昨年の約7割に当たる13億円に切りつめる。 99年度末の累積赤字は約35億円。 95年から胸スポンサーだった伊藤ハムが撤退。クラブはスポンサー料の3億円を失う。 (完全な撤退ではなく、胸部スポンサーから降りただけでスポンサーは継続。) GK兼本正光、98年シーズン後に退団。川崎製鉄からの参加選手はついにゼロに。 1月11日、川勝良一氏(前V川崎監督)が監督就任。 3月14日、ヴィッセル事務所ビル1階に「ヴィッセル神戸メンバーズサロン」お披露目。16日より営業開始。 7月31日、たらみオールスターサッカーにDF海本慶治、FW永島昭浩が出場。 12月25日、ヴィッセルユース、Jユースカップ初優勝。ヴィッセル神戸として初のタイトル。vs横浜Fマリノス(長居)2-0 1stステージを16チーム中、12位。 5勝1分9敗 勝ち点15 得点20 失点24 得失点差-4 2ndステージを16チーム中、7位。 7勝3分5敗 勝ち点22 得点18 失点21 得失点差-3 12勝4分14敗 勝ち点37 得点38 失点45 得失点差-7 リーグ最終順位12位。 ヤマザキナビスコカップ、2回戦で敗退。 第79回天皇杯、山形に0-0(PK3-4)。3回戦で終える。 (左)ホームゲーム用ユニフォーム。(右)アウェーゲーム用ユニフォーム。 1999年~2002年使用。※アウェーユニフォームは2002年は3thユニフォームとして使用。 ※写真はホーム用が2000年シーズン、アウェー用が1999年シーズン使用ユニフォーム。 ・2 0 0 0 (平成12)年 袖スポンサーがキリンから神戸市に変更。 4月12日、ナビスコ杯アウェー戦初勝利。vs大宮(大宮)4-0 8月26日、たらみオールスターサッカーにDF海本慶治が出場。 10月、アジアカップ2000レバノン大会の日本代表に、DF海本慶治がヴィッセル神戸から初の代表選出。 11月26日、最終戦(京都戦)後、FW永島昭浩の引退セレモニーを挙行。 1stステージを16チーム中、7位。 7勝1分7敗 勝ち点22 得点21 失点17 得失点差+4 2ndステージを16チーム中、14位。 4勝0分11敗 勝ち点11 得点19 失点32 得失点差-13 11勝1分18敗 勝ち点33 得点40 失点49 得失点差-9 リーグ最終順位13位。 ヤマザキナビスコカップ、2回戦で敗退。 第80回天皇杯、清水に0-1。初の準決勝(ベスト4)で終える。 ・2 0 0 1 (平成13)年 1月、FW三浦和良加入。 2月24日、「六甲アイランドヴィッセル神戸応援クラブ」発足。 8月4日、たらみオールスターサッカーにMF望月重良、FW三浦和良が出場。 9月2日、JOMO CUP2001にFW三浦、DFシジクレイが出場。 9月4日、袖スポンサーに中古自動車販売の最大手ハナテングループの「兵庫オートオークション」が決定。 今までの神戸市から8710に変更。 11月24日、リーグ最終戦、神戸ウイングスタジアムの柿落とし。vs横浜Fマリノス 1-1 1stステージを16チーム中、10位。 6勝2分7敗 勝ち点19 得点16 失点20 得失点差-4 2ndステージを16チーム中、13位。 3勝5分7敗 勝ち点13 得点25 失点32 得失点差-7 9勝7分14敗 勝ち点33 得点41 失点52 得失点差-11 リーグ最終順位12位。 ヤマザキナビスコカップ、2回戦で敗退。 第81回天皇杯、浦和に1-4。4回戦で終える。 ・2 0 0 2 (平成14)年 ホーム用ゲームパンツ、ソックスのデザインがマイナーチェンジ。 新たにシルバーを基調とした新セカンドユニフォームが登場。 今までのブルーのセカンドユニフォームはサードユニフォームとなる。 5月、2002FIFAワールドカップ・コリア・ジャパン大会開催。 7月21日、新神戸オリエンタルアベニュー地下1階に「ヴィッセル神戸サポーターズスクエア」がオープン。 7月26日、川勝良一監督が辞任。 7月31日、松田浩コーチが監督へ昇格。 8月24日、JOMOオールスターサッカーにMF望月重良、FW三浦和良が出場。 12月18日、松田浩監督が退任。 12月24日、来季の新監督に副島博志氏が就任決定。 1stステージを16チーム中、13位。 4勝1分10敗 勝ち点12 得点12 失点22 得失点差-10 2ndステージを16チーム中、10位。 6勝2分7敗 勝ち点19 得点21 失点22 得失点差-1 10勝3分17敗 勝ち点31 得点33 失点44 得失点差-11 リーグ最終順位14位。 ヤマザキナビスコカップ、予選リーグ(Bグループ)4チーム中4位で予選敗退。 0勝2分4敗 得点5 失点11 第82回天皇杯、川崎に1-3。3回戦で終える。 ・2 0 0 3 (平成15)年 神戸ウイングをメインスタジアムに。フィールドの芝不良が問題化。 北側シートの吸音板で声援が響かないため、ホーム側ゴール裏のサポーターから南北入れ替えの声があがる。(南北問題) ホーム用ユニフォームデザインが変更。ブルーのサードユニフォーム廃止。 ?月、「サポーターズスクエア」が新神戸オリエンタルアベニュー地下1階から1階へ移転。 (5月に神戸ウイングで開催されたU-22代表ニュージーランド戦ではまだ地下1階にあった) 2月、約42億円の累積赤字を計上。 9月、元川崎製鉄サッカー部OBを中心に構成する「リバーフリーキッカーズ」を母体にJリーグ入りを目指す「ファジアーノ岡山」が設立。 1月26日、大震災8周年記念事業「NEW YEAR'S HYOGO DREAM SOCCER 2003」開催。vsDREAM HYOGO(神戸ユニバ) 1-2 3月28日、5シーズンぶりの胸部スポンサーに川崎重工業が決定。推定2億円。 4月2日、「ヴィッセル神戸海岸線地域後援会」発足。 4月6日、2次工事が完了した神戸ウイングスタジアムの柿落とし。リーグ戦初ホームゲーム開催。vs京都サンガ 0-2 4月14日、「2002年ワールドカップ神戸開催1周年記念マッチ ヴィッセル神戸vs天津泰達」を6月4日に開催と発表。 4月19日、神戸ウイングスタジアムの開閉式屋根が閉じられた状態での初試合。vsベガルタ仙台 1-2 5月、神戸ウイングスタジアムの芝不良が問題化。 5月9日、重症急性呼吸器症候群(SARS)の影響で天津泰達戦の中止を発表。 5月11日、神戸ウイングスタジアムで初勝利。vs浦和レッズ 3-2 6月30日、クラブオフィスを神戸ウイングスタジアム東隣の御崎Uビル3階に移転。 8月9日、JOMOオールスターサッカーにDFシジクレイ、FW三浦和良が出場。 12月4日、副島博志監督の天皇杯終了後に退任を発表。 12月13日、全国紙各紙の夕刊第1面に「ヴィッセル神戸譲渡」の記事が載る。 12月15日、株式会社ヴィッセル神戸、東京地方裁判所に対して民事再生手続開始の申立てを行う。 12月19日、裁判所より民事再生手続開始の決定が下る。 12月23日、第83回天皇杯準々決勝、ベスト8で終了。株式会社ヴィッセル神戸が運営するチームとして最後の公式戦。 12月26日、DF三浦泰年現役引退、ヴィッセル神戸チーム統括部長に就任。 12月27日、来季の新監督にイワン・ハシェック氏(元 広島、市原選手)が内定。 1stステージを16チーム中、13位。 5勝1分9敗 勝ち点16 得点18 失点34 得失点差-16 2ndステージを16チーム中、13位。 3勝5分7敗 勝ち点14 得点17 失点29 得失点差-12 8勝6分16敗 勝ち点30 得点35 失点63 得失点差-28 リーグ最終順位13位。 ヤマザキナビスコカップ、予選リーグ(Aグループ)4チーム中4位で予選敗退。 2勝1分3敗 得点9 失点10 第83回天皇杯、C大阪に2-3。準々決勝で終える。 (左)ホームゲーム用ユニフォーム。(右)アウェーゲーム用ユニフォーム。 2003年~2004年 使用。※アウェーユニフォームは2002年~2003年使用。 ※写真は2003年シーズン使用ユニフォーム。 |